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2004年5月号【我が国初の合成ルビー】
2004-05-01
【我が国初の合成ルビー(Synthetic Ruby)】
1904年、フランスのオーギュスト・ベルヌイは画期的な方法でルビーを合成した。
彼は、ルビーの原料である(アルミナの)成分を粉末にして高温の火炎の中を落とすことによって溶融して、細長い円柱状に結晶させるという方法を開発した。それ以前にもフェイルという化学者らによりルビーの合成は研究されていたが、その方法は坩堝を使いその中で結晶させていた。当時の坩堝は現代のものよりも質が悪く、原料溶解時の高温により坩堝から解け出した成分が成長中の結晶へ入り込んでしまい、出来た結晶は質の低いものとなる。その欠点を知るベルヌイは坩堝を使わない方法でルビーを育成したのである。したがって“火炎溶融合成法”のことを特別に『ベルヌイ法』とも呼ぶ。
その後特許の期間後や、その内容からやや変えるといった方法が世界中で研究され、今やその方法はもっともよく知られ安定して大きな結晶を造る方法として定着した。当然我が国い於いてもその研究はなされ、多くの研究所や企業で、本方式でルビーやサファイアが合成されてきた。
文献上では、“日本窒素肥料株式会社”が朝鮮の興南に於いて合成宝石の工場を建設したとある。昭和9年(1934年)頃のことで、ドイツから技師を招いてその開発に当たらせたと記述されている。その後幾件かの成功例も見られる。
今日我が国の宝石の合成技術は世界水準以上のものがあるが、実はこの時代にあっては日本の合成技術はかなり後進的なものであった。しかしここに一人の知られざるルビーの研究者がいる。『田口 木弥(たぐち きや)』。この名前を知る人は今日の宝石業界、いや鑑別業界に於いてはおそらくといってもよいほどいないはずである。当然宝石関係の書籍にもその名は見られない。
記録では、興南の工場建設以前に溯ること9年、大正14年(1925年)にルビーの合成に着手していた。
氏は明治34年(1901年)に茨城県の現筑波市に生まれた。彼は晩年は土浦市の学校教師を勤めたが、大正14年に“日本ダイヤモンド工業㈱”でルビーの合成を研究した。昭和8年には“東京工業大学田丸研究室”で研究員としてルビーの合成を研究した。彼の研究資料は7冊の大学ノートに残され、共に種々の現物の資料も残っている。
データによると、かなりの試行錯誤の末に成功していることが伺い知れる。氏は火炎を作る為に実験室の中で“水”を電気分解している。今でこそ何百カラットもの立派な結晶が造られているが・・・、当時はいかにその育成が困難であったかを知ることができる。
1904年、フランスのオーギュスト・ベルヌイは画期的な方法でルビーを合成した。
彼は、ルビーの原料である(アルミナの)成分を粉末にして高温の火炎の中を落とすことによって溶融して、細長い円柱状に結晶させるという方法を開発した。それ以前にもフェイルという化学者らによりルビーの合成は研究されていたが、その方法は坩堝を使いその中で結晶させていた。当時の坩堝は現代のものよりも質が悪く、原料溶解時の高温により坩堝から解け出した成分が成長中の結晶へ入り込んでしまい、出来た結晶は質の低いものとなる。その欠点を知るベルヌイは坩堝を使わない方法でルビーを育成したのである。したがって“火炎溶融合成法”のことを特別に『ベルヌイ法』とも呼ぶ。
その後特許の期間後や、その内容からやや変えるといった方法が世界中で研究され、今やその方法はもっともよく知られ安定して大きな結晶を造る方法として定着した。当然我が国い於いてもその研究はなされ、多くの研究所や企業で、本方式でルビーやサファイアが合成されてきた。
文献上では、“日本窒素肥料株式会社”が朝鮮の興南に於いて合成宝石の工場を建設したとある。昭和9年(1934年)頃のことで、ドイツから技師を招いてその開発に当たらせたと記述されている。その後幾件かの成功例も見られる。
今日我が国の宝石の合成技術は世界水準以上のものがあるが、実はこの時代にあっては日本の合成技術はかなり後進的なものであった。しかしここに一人の知られざるルビーの研究者がいる。『田口 木弥(たぐち きや)』。この名前を知る人は今日の宝石業界、いや鑑別業界に於いてはおそらくといってもよいほどいないはずである。当然宝石関係の書籍にもその名は見られない。
記録では、興南の工場建設以前に溯ること9年、大正14年(1925年)にルビーの合成に着手していた。
氏は明治34年(1901年)に茨城県の現筑波市に生まれた。彼は晩年は土浦市の学校教師を勤めたが、大正14年に“日本ダイヤモンド工業㈱”でルビーの合成を研究した。昭和8年には“東京工業大学田丸研究室”で研究員としてルビーの合成を研究した。彼の研究資料は7冊の大学ノートに残され、共に種々の現物の資料も残っている。
データによると、かなりの試行錯誤の末に成功していることが伺い知れる。氏は火炎を作る為に実験室の中で“水”を電気分解している。今でこそ何百カラットもの立派な結晶が造られているが・・・、当時はいかにその育成が困難であったかを知ることができる。
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